「自分たちのサッカー」とは?

 
 サッカーのワールドカップ ブラジル大会2014で、日本代表が2敗1分けで散った。散ったというのは、GL(グループリーグ)敗退ということ。日本は決勝トーナメントに駒を進めることができず、これは3大会ぶりのことだという。
 新聞やネットでの報道を見ていて「自分たちのサッカーができなかった」「自分たちのスタイルのサッカーができなかった」「日本らしい戦いができなかった」といったコメントをしている選手がいて、そのことに違和感を抱いている。

 日本にとっての自分たちのサッカーとは、パスをつなぐサッカーで、前線(FW)からDFまでをコンパクトに保って試合をするようなことではないかと思うが、それはFCバルセロナのようなスタイルのことではないかと感じるし、まったく同じではないにしても、比較的似たスタイルであろう。

 私が言いたいのは、それがバルセロナのようなものであっても、イタリアのサッカースタイルであってもかまわないのだが、それは「自分たちのサッカー」「日本らしいサッカー」と呼ぶほどのものではあるのか、ということ。というキツい表現に見えるかもしれないが、(どの国とも違うというほど)オリジナリティあふれる独自のスタイルではないと思うし、仮にそれが日本だけのスタイルだとしても、そのことにこだわり過ぎるのはいけないのではないか。
 
「スタイル」を「個性」と置き換えてみるとどうか。「個性」とは、自分はこうだと自分で決めるのではなく、他人が「あの人はこうだ」「あのチームはこうだ」というように判断すればいいのではないだろうか。
「日本らしいサッカーはできなかった」というような発言に対し、私が言いたいのは複雑なことではない。「日本らしいサッカー」「自分たちのサッカー」がどうのこうの、というよりも、まずは勝敗でしょ、と。どれだけキレイなパスを回しても、最後にシュートを決められなけらば意味がないし、まずは勝ってこその「スタイル」のはず。スタイルを守ることを優先してしまったら本末転倒だろう。

 日本のサッカーはこういうスタイルだ、とはっきりさせるのも大切かもしれないが、パスサッカーが通じなかったり、できない相手に対しては、臨機応変に戦う、「万能型」のチームをめざしてほしい。
「自分たちのサッカー」にこだわり過ぎるのは、「自分らしさ」にこだわり過ぎる、自分大好きナルシスト人間のようで、それってちょっとどうか、と思う。
 「自分たちのサッカー」「日本らしいサッカー」といった言葉に酔ってはいけないというか、ことばにすることで、「俺たちはこうなんだ(こうでなければ俺たちじゃない)」と縛られてしまう、そんな恐さもかかえているのではないだろうか。
 
 
 

 

Yasu
  • Yasu
  • デザイナーを経て、クリエイティブディレクター、コピーライター、ライターに。「ベースボール」代表。広告&Web企画・制作、インタビュー構成をはじめ『深川福々』で4コマ漫画「鬼平太生半可帳」連載中。書籍企画・編集協力に『年がら年中長嶋茂雄』など。ラフスケッチ、サムネイル作成、撮影も。