AIは人間を目指すのか、人間を超えるのか
清水亮さんのブログを読んでいて考えたのが、「AIは人間をめざすのか、人間を超えるのか」ということ。
最近、AI(人工知能)が話題になっていることを私も感じている。AI(人工知能)が人間を超えるシンギュラリティは、2045年に起こるともいわれている。
では、このときの人間を超えるとはどういうことか。いや、その前に超えるためには、どこまでも近づかないといけないだろう。マラソンだって、前を走っている選手を追い越そうと思ったら、まずはその選手に追いつかないといけない。
そもそも、人間とは超えなければいけないものなのか、という気もする。人間は不完全だし、物忘れもするし、うっかりミスもするし、年をとると体力や気力、記憶力などが衰える(人が多い)。
では、まず人間的なAI(人工知能)をめざすには、そのような「年をとると衰える」機能を盛り込むのか。その必要があるのか。そうしたほうが、たしかに「人間的」なのかもしれない。
だとすれば、人間に近づくとはミスをしたり、忘れたり、うっかりしたりすることなのだろうか。そういったことが(自然に)できるようになったAI(人工知能)があったとしたら、人は「人間らしいAI(人工知能)だな」と言うのだろうか。仮に言ったとしても、それはホメ言葉なのだろうか。「ダメなAI(人工知能)」というレッテルを貼られるようなものなのか。
「人間を超える」ことを目指すとしても、では、その場合の「人間の定義」は何か、どういった存在で、どういったことができて、どういったことができないのを人間というのか。
そのようなことから考えないといけないのではないか。もちろん、そのようなことを考えてAI(人工知能)の開発に取り組んでいる研究者やプログラマーなどもいるのだろう。まずは、そういったことを調べてみる必要がありそうだ。
そして、まだ調べたわけでもないが、人間を超えるとは、もしかしたら究極的には神に近づくということなのか。仮にすだとすると、深層学習(ディープラーニング)によって進化し続けたAI(人口知能)とは、新しい神のことなのか。New God
いや、そうとは思えないし(今のところ)、私の考えはどこかで間違っているのかもしれない。こう書いていたら、深層学習(ディープラーニング)によって、AI(人口知能)はどこを目指すのか、大いに気になってきた。
ボブ・ディランの名曲「風に吹かれて(Blowin’ in the Wind)」ではないけれど、答えは風の中なのか。
その答えを、AI(人口知能)に聞いてみるべきなのか。