蓮沼執太「 〜 ing」で想い出される音やこと
本当はすぐに書こうと思っていたのに、資生堂ギャラリーで行われている、蓮沼執太「 〜 ing≈」(カライング、と読ませたいとのこと)展のブロガー向け鑑賞イベントからすでに1週間以上たってしまった。これだけ時間がかかってしまったのは、少々バタバタしていたこと以外に、どう書こうか思いあぐねていたことも理由だ。
純粋にミュージシャンというより、音を用いて活動をしてきた蓮沼執太による展覧会なのだが、これがどう伝えていいのか、なかなか悩ましい。「現代アートに近い」と書いたのは、現代アートという分野に蓮沼さんを含めていいのか、私には判断がつきづらいからだ。これは、蓮沼さんを「現代アート」には属さないと言い切るのも難しく、かといって、蓮沼さんがやっていることをただたんに「音楽」というのも、なにか違うような気がするからだ。
なんというか、鳥でも動物でもない、とされた「コウモリ」のような存在、とでもいえばいいのか(この表現も、完全にしっくりきているわけではないが)。
資生堂ギャラリーでの展覧会では7つの作品が展示されていて、そのうちのいくつかにふれてみたいと思う。
まず、会場のメインのスペースといってもいい、ほぼ正方形に空間を使った「Ginza Vibration」と「Thin〜Being」。
「Ginza Vibration」は、銀座の外の振動をダイレクトにギャラリーの会場に伝える作品。資生堂ギャラリーのある建物から通りにして3筋ほど離れた、資生堂銀座ビルの屋上に設置されたマイクとカメラによって拾われた映像を、資生堂ギャラリーのメインの空間の床に投影。マイクで拾われた音は、天井から吊るされた4つのスピーカーから流される。
「Thin〜Being」は、会場のメインスペースを埋め尽くすように積まれたというか、バラまかれたような金属片の上に人が乗ることで、音が鳴るもの。いや、音が奏でられる、といってもいいかもしれない。
金属片と書いたが、もっと具体的にいえば、楽器の製造過程で出た金属材。蓮沼さんは「浜松にあるヤマハの工場へ出向き、もらってきました」といったことを話していた。
その金属片に、鑑賞者は乗り、歩きまわることができる。その際、金属片がザザッ、ザクッ、カーン、というような、不思議な音が鳴る。金属片の落ち葉の森の上を散策しているような、そんな気分がした。
その金属片は、蓮沼さんに説明される前から、楽器の一部のようには思えていたが、私が「楽器の不良品のようなものですか」と聞くと、蓮沼さんの答えは「例えば、トランペットの管に必要な部分をカットした際に出る、余った金属片のようなものです」というようなものだった。
なんだろう。金属片の上なんて、おそらくこれまで歩いたことがないような気がするし、美大に通っていた学生時代にしても、石や金属などの破片のようなものが少しはある場所を歩いたことはあるものの、金属片だらけの場所を歩いたことがないはずだし。
と今、書いていても、なんだか似た体験をしたことはないはずなのに、過去に似た経験をしたことがあるような気がしてくる。不思議だ。こういうのもデジャブというのか。
実際、今ふと想い出したのは、高校生の夏休みにパナソニック(当時は松下電器だったか、ナショナルだったか)の蛍光灯の工場でアルバイトをし、ときどき工場のラインでスムーズに流れず、蛍光灯が割れてしまい、割れた蛍光灯を捨てるために砕いた時の音や感触。
あるいは、幼稚園から小学校にかけてスーパーマーケットの上階に住んでいた頃、敷地内にあるダンボールのゴミ捨て場で、ダンボールの山に乗ったり、潜ったりした時に匂いや音。
または、羽根木公園の林の中を散策した時の音や空気。砂浜を歩いたり、走ったりした時の音や香り。
金属片の上を歩くのは少々危ないかもしれない。こけたり、裸足の足に触れたりすると金属片でケガをする可能性もないとはいえないので、すべりやすい靴やヒールの高い靴、サンダルなどでなく、できれば底が薄すぎないスニーカーのような靴のほうがいいかもしれない(底が薄すぎるスニーカーなんてないか)。
私は金属片の上で、ほんの一瞬、目をつむってみたのだが、自分やまわりの人が金属片を踏んで出している音が、より敏感に感じられる気がして、なんだか気持ちがよかった。
いわゆる音楽ではない「音」を味わいに、足を運んでほしい。イヤホンやヘッドホンで聴く音楽でない音をひさしぶりに聴いた気がしたし、自分の耳が喜んでいるように思えた。
あれ以来、まちなかの音にちょっと敏感になったような気がする。例えば、「赤」を気にしはじめると、まちを歩いていても「赤いポスト」「赤いクルマ」「赤い服」など、赤いものがやたらと目に飛び込んでくる、という「カラーパス効果」のようなものだろうか。
そういえば、学生時代にバンドを始めて、ベースギターを担当するようになってしばらくすると、低い音の高低を、自分の耳が聴き取れるようになっていて、そのことに自分で驚いたことを想い出す。
「楽器は音楽をつくるためにつくられたもの。その楽器をつくる過程で生まれたものと、鑑賞者であるみなさんが加わることで新しい音楽が生まれないかと思っています」というようなことを蓮沼さんが言っていたが、面白い考え方だと思った。
かなり注目を集める存在になっているのに、私と話した時も偉そうな感じがまったくないし、みんなの前で作品について説明した時も自然体で、その態度にも私は好感を持った(落ち着いたなかにも自信が感じられた)。
「会場を真っ暗にしても面白いかもしれませんね。さっき、一瞬、目をつむって金属片の音を聴いたら、ここはどこなのだろうと感じつつも気持ちがよかった」と私が言うと、蓮沼さんの近くにたまたまいた女性が「危ないですよ」と笑った。女性はパンプスを履いていたように記憶している。
あ、そうそう、「Change」という作品は、スマホの画面を大きくしたみたいなもので、金属片があるスペースの端にある。その作品からはニューヨーク州を含む場所で、蓮沼さんが採取した環境音が聴こえる。その作品の巨大なスマホの画面には、さまざまな場所の画像が写っているのだが、その画像は環境音を採取した場所の位置情報からGoogleでイメージ検索したものだと、近くにいた女性が教えてくれた。
その女性が、蓮沼さんがそのキャリアをフィールドレコーディングから始めた、といったことを教えてくれ、私もそのことを蓮沼さん自身に聞いてみた。それによると、大学時代に(大学の2年生という話だったか。フィールドレコーディングをして音を採取することを始めたそうで、ただそれだけだと過去にも同じようなことをしていた人がいるので、いろいろ考えながら始めた、そんな話だった。
この「Change」で聴こえてくる音は数種類あって(時間と時間を置いて数回というべきか。ある場所。ある時間に採取(録音)された音が流れ終わると、別の場所・時間の音・画像に切り替わる)、そのなかにニューヨーク州の森で採取したのかな(そこに映された画像からそう思えた)という虫の音があって。下北沢に住んでいた頃を想い出した。
数年前まで古い一戸建てに暮らしていたのだが、敷地内の庭とも呼べないほどのバックヤードに植物が茂っていて(アジサイが毎年咲いていた)、夏の初めや夏の終わり頃、コオロギや鈴虫が鳴いていたのではなかったか。当時、私はオークラジオをというポッドキャストをわりと頻繁にアップしていて、夜中というか明け方だったか、に虫たちの声を録音したことがある、というようなことも想い出した。
すれ違った女性の香水の匂いを後日、どこかでかいだ際に「あ、この匂い、前に出会ったはずだ」と感じることがあるが、その「匂いの記憶」のように「音の記憶」というのもあるのだろう。そして、そのなかに「音楽の記憶」もあれば、「環境音の記憶」も。
不思議な「音」体験ができ、(私にとっては)さまざまな音やさまざまなことを想起させる作品だった。あの音たちに会いに(そして、そのことで呼び起こされるかもしれない記憶に会いに?)、また足を運びたいと思っている。
蓮沼執太
「〜 ing」
6月3日(日)まで(@資生堂ギャラリー)入場無料